現地にて東日本大震災四十九日法要を行いました。
参加者 中島妙江、中島泰俊、佐々木妙綸、片山妙晏、安森泰譱、大藤喬平、森本 清、嶋崎節子、田中頌子、安森浩子、坪井千晶、中島早苗(敬称略)
実際の行程は以下の通りです。
4月24日 先発組、岡山出発 福井県で一泊
25日 次発組、岡山出発、山形空港で合流、福島県に知人のお見舞い
26日 式典準備・鹿島御児神社にて打合せ、
27日 式典準備、七ケ浜読経、
28日 仙台遺骨安置所で読経、本山孝勝寺で四十九日法要、
29日 鹿島御児神社にて四十九日法要を執行、
30日 観音教会流出現場・浜辺で読経、経木塔婆を海へ流す、
5月1日 現地を出発
5月2日 岡山に到着
4月25日 福島県の知人をお見舞い訪問
25日の夕方に山形空港に到着した。住職と私は他のメンバーと別れ、住職の故知の友人に会うため、福島県郡山インターチェンジに向かった。何度かの旅でも、福島県への訪問は中々、難しい。それだけに友人の安否が気になっていた。
しかし、お会いすると、ことのほかお元気そうで安心しました。
ただし、放射能の風評被害はすさまじく、支援がことごとく後手に回ってずいぶんと不便をしたと話してくれました。
被災地寺院をお見舞い
大崎市・妙勝寺さんと石巻市・久円寺さんをお見舞い訪問。被災の情報をおうかがいしながら、お見舞いと激励を申し上げました。
4月26日 法要準備に現地入り(嶋崎節子)
8時半ホテルを出発。
石巻市 日和山鹿島御児神社へ約2時間 風景が、だんだんに様変わりして行く中、広大な田畑に強大津波が運んだ車や船・がれきが散乱、激しく被害にあっている。田畑は潮の影響で復活は、2・3年掛けと知り胸が痛んだ。町に入ると、住宅・店舗・車など破壊され、汚泥の悪臭に被われていた。
鹿島御児神社に到着、山頂に位置する鹿島御児神社も大地震で建物に被害を受けていた。境内の一角に有るご住居もブルーシートに覆われ大変な状況に思った。
妙江先生、お上人方はお宅に通され、私たち(森本、中島早苗、田中、嶋崎)4人は散策に、先ず本殿に参拝を済ませ、境内で自衛隊の車が目に付き、何故なのか分からなかった。高台より高波 潮位の警戒、監視に当たっているとの事。
石巻市の中心部を見下ろす、標高60メートルの展望台から大津波で一変した悲惨な光景を目の前に、さまざまな生活の様子が頭を廻り、強大津波が一瞬の間に攫って行った。無残で涙が溢れ出た。
神社に続いて、日和山公園が有って、そこには満開の桜が一面に姿を見せていた。何か復興を祈っているかの様にも思えた。私は神戸在住なので、阪神大震災の思いを重ねて見たが、東日本大震災は数倍、衝撃的に思えた。又、生・死の境を思うと、神様のご加護の下日々、精進、努力して行くことの大切さつくづく思いました。
4月27日仮埋葬墓地で読経
鹿島御児神社の宮司さんより仮埋葬墓地の情報をいただき、近くの鰐山墓園というところで、さっそく墓地にて読経しました。ちょうど埋葬作業中に墓地に到着し、埋葬作業に合わせて読経しました。パワーショベルで穴を掘り、棺ごと埋葬していました。墓地には100体以上の埋葬者が埋まっているようでした。
4月27日海辺で読経
石巻港の海岸に行き、海に向かって読経しました。海には約1万5千人の方が流されて未だ見つかっておりません。我々は声なき死没者の魂の浄化を願い供養を続けていく大切さを噛みしめながら、祈り続けました。
4月28日 葛岡墓苑にて引き取り不明者の遺骨の供養 ( 田中頌子)
妙江先生始め11名が、仙台のホテルの方々にやさしく送り出され2台の車に乗り込み9:00に出発する。
大地震大津波による身元不明の遺骨を安置してある、仙台市葛岡墓苑にて被災死没者の供養を行う。
黒い墓石が並ぶ墓苑に到着したのだが、迷い迷って現場になかなか到着しない。あげくの果て、焼場に着き10分程待たされた上に場所違い、もっと上の方とのこと、かなり走ってやっと安置所に着く。
4棟のプレハブが建っていて、内1棟に案内される。上衣、ケサ、団扇太鼓と身なりを整え、気分をひきしめる。
重苦しい空気の中、先生を先頭に全員プレハブの中に入る。小さい祭壇に手を合わせ窓ぎわに全員が並ぶ。畳が敷かれ白い布におおわれた低い机の上に、大地震・大津波による身元不明の被災死没者の骨箱に収められた遺骨が、32体分、安置されていて、その前には番号札が書いてある。別のプレハブにもたくさんの遺骨が、安置してあるらしい。突然、この方々が、大地震大津波に会い亡くなられかと思うと、胸が張り裂けそうになる。大地震と大津波による、被災死没者と葛岡墓苑にねむられる霊を呼び出して、お経が始まる。
妙江先生始め、11名の思うことは同じで、徐々に声に力が入り力強い読経となる。南無妙法蓮華経のお題目になると団扇太鼓にも力が入る。どのような状態で亡くなられたのだろうと思うだけで涙が溢れ、どうぞ安らかにねむられるようにと思わずにはいられなかった。読経も終わり、皆一礼してプレハブを出ると他宗のお坊様が、1人お経をあげにこられていました。
全国のお坊様が、一人でも多く現地に訪れ東日本被災死没者の霊に対して、祈りをあげて欲しいと思いながら、葛岡墓苑を後にしました。
4月28日 本山孝勝寺にて東日本大震災49日法要執 (佐々木妙綸)
午後から、一心寺の皆様と、東日本大震災四十九日法要に参列させていただく為、仙台市にある本山孝勝寺に向いました。私は、初めて参拝する他寺での本格的な法要に少し緊張ぎみです。中島泰俊上人・安森泰譱上人と私は、式衆として参加させていただきました。
まさかあの様な大きな法要に式衆として参加させていただけるとは夢にも思っておりませんでしたので、
「大丈夫かな?」っという感じで、本堂に入るとたくさんの参列者に、またびっくりでますます緊張してしまいました。
それでも、式典は開始してしまいます。私は皆さんの足を引っ張らないことと、被災死没者の供養のことだけを考えて一生懸命に式衆を努めました。
式典中、御導師の表白文に耳を傾けているうちに、二十六日に赴いた日和山、二十七日の七ヶ浜の風景を思い出しました。辺り一面がれきの山、ぐちゃぐちゃの街、何ともいえない匂い、まるで地獄のようでした。
あのがれきの中で亡くなっておられる方、冷たい海の中に沈んで浮かんで来られない方々の無念さ、つらさを想像すると、悲しいとか、悔しいとかそんな、ありきたりな言葉で表現しきれない、どうしようも無いという、深い深い悲しみというか、深い、深い闇の中に沈んで行く様な、重たい重たい気もちを感じました。
そんな事を式典中に思い出し、涙が出そうになるのを必死でこらえました。式典後、妙江先生から亡くなられた方々2万人が、今回の法要に御供養をもらいに来られたとお聞きしました。きちんとお葬式をあげて頂けた方も少ないとの事、あの様な法要に参列させて頂いたことをとても感謝いたします。貴重な体験をさせていただきました。
御遺体の見つかっておられない方が、一人でも多く家族のもとに戻る事が出来ることをお祈りしております。そして亡くなられた方の即身成仏、被災者の方々が一日も早く心落ち着いた生活に戻られる事を、毎日祈り続けたいと思っております。
4月29日 日和山鹿島御児神社における49日法要および祈願 (片山妙晏)
日和山の鹿島御児神社において、東日本大震災によるところの死者の四十九日(正確には50日目)の法要が太生山一心寺主催で、鹿島御児神社の宮司さんと金光教の教師2名の同席のもと、執り行なわれました。
法要当日、仙台のホテルから石巻の御児神社へ、道中にあるスーパーで供物のお花・果物・野菜・お菓子・乾物や無縁さんにお供えするお茶を入れるバケツ等の買い物をすませました。
現地の温度は13度くらいですが、作業をすると汗ばんできました。祭壇に供物を設置する準備中に雨が少し降ってきましたので、テントをはって準備をしましたが、法要の際は雨がピタリとやみました。祭壇や三宝や椅子は神社のものをお借りしました。準備が整い昼食後、お上人は法衣に着替えました。
いよいよ、法要開始です。拡声器で法要及び祈願を行うことを現地の方にアナウンスし、午後14時より、読経が始まりました。被災死没者への供養を心に願いながら、この法華経がすべてを癒してくれると信じて一心寺の皆と精一杯、お経を唱えました。
大震災が発生した14時46分には参列した一心寺や宮司さん、金光教さんとその信者さん、地元の方と皆で、一分間の黙祷をしました。法要終了後、金光教の教師2名による祈願が開始し、原発終息、復興、世界平和の祈りをささげました。その後、宮司さん、金光教の代表者、妙江先生のご挨拶がありました。
お別れの際、心が安穏になり、気持ちが落ち着いたという宮司さんや奥様のお言葉が胸に響いています。 標高56.4mの日和山にたつ鹿島御児神社からは、太平洋が一望できます。松尾芭蕉が奥の細道で訪れた場所でもあり、宮沢賢治の「海」を題材にした歌を刻んだ石碑もありました。
「宗教、宗派の違いもない。一市民として法要を行ってほしい」という宮司さんからの依頼によりご縁を頂いたという経緯を妙江先生、泰俊上人から伺いました。宮司さんのお話では、津波の渦(震災当初の映像で皆様も見られたあの大きな渦に飲み込まれた渦のことです)に巻かれて溺れる方々の「助けてくれ!」という言葉が一晩中続き、それが耳に残り眠れない日々が続いているとのことです。また津波で流された自動車の燃料が発火し、火災で亡くなられた方も大勢いらっしゃったそうです。このようなことで、この神社で法要を行うことを快くお受けいただいたようです。宮司さんの奥様から、携帯で撮影した震災直後の画像を見せてもらいました。助かった方も「自分が手を差し伸べていたら溺れている人を助けられていたかもしれない」という思いが残り、その自責の念に苛まれている方々も少なくないと奥様はおっしゃいました。また、震災後、駆けつけてきた高校生のボテンティアの活躍を見て、「日本もすてたものではないと思った」と宮司さんはおっしゃいました。そう話して下さった宮司さんのお宅は、本震とその後の余震によって、一部倒壊し、家の中も整理できない状態でした。
津波のつめ痕は、テレビや写真で見るのとは異なり、実際に現場で見たものは、凄惨極まりない光景でした。加えて、ヘドロ等の悪臭によりマスクなしでは作業ができない状態です。がれきの山をバックに咲き誇る満開の桜が皮肉にも思えました。神社にも自衛隊の車が止められており、近くの海岸沿いでは、複数の自衛隊員が作業されていました。遺体の検査済みという紙ががれきの山の各所に置かれてありました。
今回の四十九日の法要は、目に見えない、心も体も冷えきってしまい、誰にも供養されていない魂に対して温かい心を手向ける法要でした。皆で心を一つにして一生懸命大きな声で読経し、魂の救済のお祈りをさせて頂きました。これが私たちにできる精一杯のことでした。悲惨な光景を忘れることなく、日々、御経納受し続けることが、復興に繋がると信じております。戦後の平和な状態で成長した私には目にしたことの無い地獄の光景でした。車で通る道が確保されているだけ、作業が進んでいるということでしたが、何百台もの車が転倒、崩壊し、大きな船もがひっくり返り、家の上にのし上がり、考えられない、想像を絶したものでした。現地は余震が続いています。被災者は先行きが見えない不安の中、必死で復興に向けて努力されています。
4月27日 立正結社、七ヶ浜での供養 大藤喬平
後発の二号車が仙台の宿舎に到着後、お上人二人と合流し、宮城郡七ヶ浜町の立正結社に向かった。仙台市街地では地震の被害など殆ど見られなかったが、多賀城市に入り、海岸に近付くにつれて周囲の景色は一変してきた。家屋はすべて流失し、基礎のコンクリートだけが残っている。テレビ報道でおおよその状況は想像できていたが現実にこの目でみると被害の凄さに言葉が出ない
津波災害による家屋の残骸は既に粗方かたづけられているので道路は通行出来たが、一行は立正結社の跡地を見つけることはできなかった。
海辺の松林の松は津波で斜めに傾き、なかには倒れているものも多数ある。がれきが散乱している松並木のなかを通り海岸に出た。夏はきっと賑やかな海水浴場だと思う。防波堤の上で多数の人々を飲み込んでいる海に向かってお上人2人、信者3人で祈りを込めてご供養のお経をあげた。
目の前の海の中に多くの方々が飲み込まれ、苦しんでいると思うとお題目をあげているときは言葉につまり、うちわ太鼓を打つ手につい力が入った。ご供養になって欲しい。安らかにお眠りくださいと祈りお経を終えた。安堵の気持ちになり帰路を急いだ。周囲の悲惨な光景に強く衝撃を受け言葉も少ない。今後二度とこのような経験をすることがないように祈るのみだ。
4月30日 観音教会流失跡地、浜辺で読経・経木塔婆を流す (坪井 千晶)
朝より、私たちは、仙台にきて初めて駅前周辺を散策いたしました。とても大きな繁華街でした。あの様な大きな地震にもかかわらず、何事も無かったかのようにお店が開けてありましたが、やはり所々、地震の影響で壊れているところもあり、営業時間をずらしたり、お店の中を修理したりと、精一杯がんばっておられるのだなと思いました。
12時集合で、4号線を名取方面に進み岩沼市の観音教会さんへ向い、13時30分頃到着しました。海に近づくほどに津波の被害が大きく、あたり一面瓦礫の荒野のようになっており、かろうじて残っている家も傾き壊れ、海水が鉄砲水のように家の中を荒らしたのであろうと一目で解る状態でした。観音教会さんの敷地内で、皆で読経させて頂きました。
その後、近くの海岸よりに移動し、読経し、一心寺の皆さんが心をこめて書いてくれた、経木塔婆を太平洋に流しました。海岸には、高さ五~六メートル程度のコンクリート製の頑丈な防波堤がありましたが、いたるところで無残に破壊されており、津波の威力を肌で実感しました。防波堤の上にあがる階段は地震津波で浮き上がり安全に上がることが出来ませんでした。浜辺にたどり着けないかなと思われましたが、少し歩くと防波堤が津波で破壊された箇所があり、砂浜へ出ることが出来ました。此処の堤防決壊による津波が直に観音教会を呑み込んだのだなと思われる位置でした。足元がとても悪かったのですが、何とか防波堤の下の台に皆でよじ登り砂浜まで出ることができました。砂浜の砂は黒く汚れて居りました。
皆で読経中、泰俊上人、泰譱上人・妙晏上人が、東日本大震災死亡者供養の為に信徒一同で浄書した経木塔婆1200枚程を、防波堤より、海へと流しました。最初、経木塔婆は、海からの強い風に阻まれ舞い戻り何度も拾い上げては再び海に流すという、なんだか海に拒まれているかのように風と波で押し戻されました。読経が進むほどに塔婆は大きな波に飲み込まれ海の中をくるくると舞いながら引き込まれて行きました。亡くなられた方もこんなふうに、なすすべも無く海の彼方に連れ去られて行かれたのかなと思うと切なさが込み上げてきました。未だご遺体が見つからない方々、又はご家族ともに流されお経のいただけてない方々に、願わくばこの塔婆が、東日本大震災死亡者皆さんの供養の為に届くことを祈り読経いたしました。